八幡と関係のある事、四季折々に感じたことを写真と文章に纏めました。


歌舞伎「双蝶々曲輪日記」の舞台となった引窓南邸跡」の碑再見

 数年前まで、八幡宮一の鳥居前から科手町の岩神を経て、橋本町へ通じる山端に古家と立本医院の洋館があり、その道傍に「引窓(ひきまど)南邸跡」と書かれた石碑が立っていました。引窓とは屋根にあけた、綱を引いて開閉する明り取りの窓です。開閉による明暗は昼夜を示すと同時に人の心の明暗をも示しています。浄瑠璃や歌舞伎の「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」の8段目(八幡の里引窓の場)の「引窓」は、この引窓と八幡宮の儀式の放生会(ほうじょうえ)をうまく取り込んだ、竹田出雲・三好松洛・並木千柳(宗輔:そうすけ)の1749年の合作作品です。

 詳しくは、歴史研究家 土井三郎氏の記事 http://yrekitan.exblog.jp/21403666 を参照下さい。

(放生会は秋に行われ、男山のすそ野を流れる放生川(正式名称は大谷川)の安居橋の辺りでは鳥や魚が放たれます。この儀式は能の「放生川」にも取り込まれ、能では放生の利益などが語られます。)

 現在、引窓南邸跡は、更地になって、「引窓南邸跡」の石碑は、上段写真に見るように、八幡市駅前の「観光情報ハウス」裏の路傍に無造作に横たえられています。

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 引窓南邸の碑:(W190×D200×H1170) 【碑陽】引窓南邸跡 西二丁 常昌院 南一丁 神応寺

                     【碑陰】昭和二年九月 京都三宅安兵衛依遺志建之

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  八幡市駅前近くには引窓の家が多かったようで、芝居には「南与兵衛」という人物が登場しますから、その邸の跡ということになります。ただし、芝居自体はフィクションですから、モデルになった家が、この辺りにあったということでしょう。

 下の写真は、更地になる前の「引窓南邸跡」と、石碑です。

 


一寸法師と石清水八幡宮との関係

観光情報ハウスの来訪者の中には、いろいろな知識や趣味をお持ちの方が多く、質問も多彩です。

 昨年末、「石清水八幡宮に一寸法師関連の言い伝えがあると聞きましたが、一寸法師を祀ったお宮はどこにありますか? 」と聞かれて、絶句しました。一寸法師は、「♪ お椀の舟に箸の櫂、京にはるばる上りゆく ♪」という童謡がありますから、住吉大社を出発し、淀川を遡り、八幡を通過したと思われますが、途中で八幡に逗留したのでしょうか?

 いつも頼りにしている「八幡の歴史を探求する会(歴探会)」 のブログ  http://yrekitan.exblog.jp/ には、「一寸法師」のキーワードは見当たりません。

 インターネットで検索すると、川向かいの大山崎町にある宝積寺の小槌宮には、聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(写真参照)が祀られていて、「宝寺(たからでら)」や、 「一寸法師伝説の寺」の別名があるそうです。

 一寸法師が、京で暴れる鬼を退治するために淀川を上り、途中、山崎で下船して、ここ宝積寺で修行を重ね、その後京に上って見事に鬼退治を果たした、との伝説も残っているそうです。(下の写真は、左端は小槌宮、中央は小槌宮所蔵の打ち出と小槌、右端の一寸法師像は、住吉大社のものです)

石清水八幡宮と一寸法師の関係は見つかりませんでしたが、「古代史の謎百問百答(関裕二)」のQ.71には、「石清水八幡宮の伝承によれば、八幡神(応神天皇)は、誕生した時、すでに三歳の童子で、竹の葉の上に出現したとあるので、一寸法師に似ている」という記述があります。また、「一寸法師殺人事件(田島恒)」のP.79にも「一寸法師は、応神天皇をモデルにした」という説が紹介されています。また、応神天皇の子の仁徳天皇が一寸法師のモデルだという話もあります。

http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/kwch/issunbousi.htm  

 おとぎ話なので、モデルについてはいろいろな憶測が可能ですが、「石清水八幡宮は、一寸法師とは無関係です」というのが正しい答えだと思います。